inoyo.com
MENU
アクセスカウンタ
今日 : 5
昨日 : 67
今週 : 396
今月 : 1071
総計 : 307808
RSS
検索
ふりかけカテゴリー
国際保健/開発:国際保健や開発に関して私なりの論を展開しています。
フィールドノートから:フィールドでの試行錯誤。
FYI:興味深いイベントを紹介!
ツレヅレ:書評、映画評、ツレヅレと。
投稿者: inoyo 投稿日時: 2007-10-10 17:06:00 (694 ヒット)

国際協力の分野でそれなりにシンポジウムなどに出席していると、しばしば“「途上国」であった日本の経験を活かそう”という言葉がきかれる。一時は焼け野原となった日本が、目覚しい発達と復興を遂げたその経験を活かして、現在の途上国支援、国際協力に活かそうというのが彼らの主張である。彼らによると、当時の日本の経済状況、社会開発状況はいわゆる途上国にふさわしい状態にあったとされる。(具体的にどのような数字を示して、彼らが発言しているのか、はっきりしない部分もあるが、仮に途上国であったとして、)果たしてここまで発展してきた「経験」を本当に活かすことができるのだろうか。
今回学会に参加して国際保健医療の現場でも同じような「現象」が見られた。正直、不安に感じる部分が少なからずあったので、メモしておきたい。

▼疑問その 「初期条件」の違い
GDP や乳児死亡率(Infant Mortality Rate:IMR)、妊産婦死亡率(Maternal Mortality Rate:MMR)などの指標を見れば、おそらく現在の途上国と同じ水準だとしても、なかなか数字に表れない部分、教育水準(識字率のような分かりやすいものではなく。)、女性の地位、健康に対する価値の置き方、特に他の諸問題との相対的な位置づけにおいて、日本が特殊だったという可能性は否定できない。
これを言っちゃ、おしまいよ、という話なのが、国民性。国際協力においてはタブーワードなのだと思うけど、なんやかんやで大きな影響を与えているような気がする。
全体的に雲をつかむ話のようだが、野村克也の言うような「無形の力」が日本人には備わっている可能性がある。

▼疑問その◆Ю功事例だけ見ていて果たして本当に教訓は得られるのだろうか。
今回の学会の発表では、戦後のGHQが導入した公衆衛生活動をささえた、生活改良普及員や保健婦の活動事例があげられ、それを現在の国際協力のコンテクストの中で再評価しようとしているものであった。私が感じた問題点は、成功事例のみを事例として扱い、それをモデルとして拡大しようとしていた点である。うまくいかなかったケースに関して何の言及もなされていなかった。

そこで、(空気を読まずに笑、)うまくいかなかったケースの有無について、会場で質問した。
そして驚いたことは二つ。
----------------------
1)最初に回答したコメンテータがうまくいかなかったケースについて把握していなかったこと。
----------------------
2)私がさらに突っ込んで質問した際に回答したコメンテータは、うまくいかない場合の存在はあったものの、それは、サービスの受け手=住民の問題であると回答したこと。さらに、座長がそれに同調したうえで、「住民がやりたいといった場合だけ行政サイドが対応してきた」、と回答したこと。(そして、国際協力の場でもそれを踏襲しようとしていること。)
----------------------

1)に関しては、予想の範囲内であったが、2)はあまりにも乱暴な議論であり、びっくりしてしまった。うまくいったときは行政がきちんとしていたから、うまくいかなかったときはきちんと住民側の意識が高まっていなかったから、といわんばかりであった。
つまり、私が言いたいことはこういうことである。うまくいかなかった理由が住民側にあるのであれば、うまくいったケースも住民側に因ることがあるのかもしれないし、同じように、うまくいったケースがサービスの提供側にあるのだとすれば、うまくいかなかった場合も、サービスの提供側にある可能性がある、ということである。にもかかわらず、この議論の中では、そういった一連の可能性は、一切無視である。

▼うまくいかないケース
うまくいかなかった場合、原因として、以下の3つの場合わけが今回は考えられるだろう。
1)サービスの提供側にある場合
2)住民の受け手側になる場合
3)両者のマッチングがうまくいかなかった場合
しかし、2)だけ考え、他のケースを彼らは想定していなかった。もちろん、限られた時間の中で、「なんとなく」の結論を出さないといけない状況で答えたのかもしれないが、仮にもたくさんの書籍を出し、そこそこ売れている研究者の割には、ずいぶんと雑な議論ではないかと感じた。

◇  ◇  ◇


成功事例はあくまでも偶然の産物に過ぎない可能性がある。「特殊」な状況である過去の栄光にしがみついていないで、うまくいかなかった部分も含めてこれからどのような対策をしないといけないか、考察しないといけないのではないだろうか。


投稿者: inoyo 投稿日時: 2007-8-31 17:29:00 (639 ヒット)

BBCニュースにショッキングなニュースがあった。タイトルの通り、HIV-positiveの人を生き埋めにしているという。PNGとは、Papua New Guineaのこと。調査で、10月に行くこともあって、よりビックリした。

HIVへの偏見は、その感染経路の特殊性や、人々に認識され始めた当初の理解不足などによって、以前から色々なケースが報告されている。今回のケースのように殺されてしまうことや、村から追い出されてしまうケースなどさまざまである。

Some people with HIV/Aids in Papua New Guinea are being buried alive by their relatives, a health worker says. Margaret Marabe said families were taking the extreme action because they could no longer look after sufferers or feared catching the disease themselves.
面倒を見切れないというのは、金銭的にという面と同時に、精神的な面でもいえることだ。感染メカニズムが分からないければ、それは、どんな病気であっても恐ろしいだろう。

Ms Marabe said she saw the "live burials" with her own eyes during a five-month trip to PNG's remote Southern Highlands. PNG is in the grip of an HIV/Aids epidemic - the worst in the region. Officials estimate that 2% of the six million population are infected, but campaigners believe the figure is much higher. HIV diagnoses have been rising by around 30% each year since 1997, according to a UN Aids report.
感染爆発前夜などという言い方をすることがあるが、まさにそのケースだろう。PNGのHIVの状況に関しては、フジテレビの佐々木恭子アナによる取材(同局「とくダネ!」 2007年5月28日・29日放送)でご覧になった方もたくさんいるかもしれないが、確実に感染は広がっている。あの時点で、病院には、きちんとした運営ができないほど多くのHIV感染者が入院していた。

Margaret Marabe, a known local activist in PNG, carried out an awareness campaign in the Tari area of the Southern Highlands earlier this year. "I saw three people with my own eyes. When they got very sick and people could not look after them, they buried them," she told reporters.

She described how one person called out "mama, mama" as the soil was being shovelled over their head. Villagers told her that such action was common, she said.
泣き叫ぶ感染者を村人たちが生き埋めにするとき、村人たちの思いはいったい何なのであろうか。今までも、このような「流行り病」があるときには、そうやって対処してきたのだろうか。それが、彼らをここまで生かしてきた文化的な適応の一形態なのであろうか。

一刻も早い対策が望まれる。


http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/6965412.stm


補足:実際に生き埋めにしているかどうかは研究者の中でも懐疑的なヒトもいるとのこと。というのも、主張しているのがMargaret Marabeだけだからだ。きちんと立証されているわけではないのだ。(9/12)


投稿者: inoyo 投稿日時: 2007-8-27 17:51:00 (585 ヒット)

深夜のドン・キホーテのアルコール売り場をうろうろしていると、見覚えのある焼酎が眼に入った。さつま白波だ。今からちょうど十年前に死んだ祖父が好んでよく飲んでいた。

今から10年前には、私はもう中学生だったので、当然記憶ははっきりしているべきなのだが、どういうわけか、思い出せる記憶は数えるほどしかない。そんな中、鮮明に残っているのが、さつま白波を一升瓶からグラスに注ぎ、キャップをポンッと押して戻す祖父のしぐさだ。芋焼酎が今のようなメジャーなものではなく、むしろ、貧乏人が飲む安い酒だった時から、その酒を祖父は好んで飲んでいた。

   あれから十年がたち、みな少なからず変わった。祖父が生きていたら
   どう言うだろうと考えることがないわけではない。

せっかく眼に入ったのだから、と思って、さつま白波を購入した。一升瓶を買おうか迷ったが、飲みきれないときのことを考えて、半分のサイズの小さい瓶を買った。24の私にはちょうどいいサイズなのかもしれない。

   これからの十年は、もっと変わるだろう。苦しくなるときも、悲しくなるときも、
   どうしようもなくなるときもあるだろう。そんなときは、さつま白波に酔いながら、
   夢の中の 祖父に語りかける自分がいるのだろう。


投稿者: inoyo 投稿日時: 2007-7-21 17:57:00 (561 ヒット)

アジア経済研究所の夏期公開講座に出かけた。第一回目の今回は、「転換期を迎えたタイの政治・経済」というタイトルで、
・90年代以降の民主化
・タイという国の中進国化=国の近代化、現代化

をテーマに3人の講師が、それぞれの専門である、
・法律(97年憲法体制の意味と新憲法の動向)、
・行政(「タイ式」民主主義とタックシン政権)
・経済(GDP3000ドルの数値の裏の都市−地方格差・少子高齢化)
の立場から論じるというものだった。

--------------------------------------------------------------
「人気絶頂」のタックシン政権崩壊の理由
--------------------------------------------------------------
タックシン政権の崩壊の背後には、
a) 国王を含めて、王制を護持したい勢力からの反感があったこと
b) 旧来のタイ式民主主義の担い手、たとえば、軍関係者、枢密院、保守派知識人の一種の焦り
   ・農民を巻き込んだ大衆民主主義に対する都市中間層の嫌悪感・恐怖感
   ・近隣のマレーシアやシンガポールのように一党によって政治を牛耳られる
   ことへの抵抗感などがあったという分析であった。
   (97年憲法で、小選挙区制になってから農民の票が大きな力を持つよう
   になった。)

いずれもタックシンが非常に魅力的な政治家であったがために起こったことでもある。(わが国の首相はさぞうらやましいことだろう。)タイにおいて国王の威光というものは、非常に大きかったらしいが、「国王を敬愛するがタックシンも気遣う。」という言葉が出てくるほど、タイ農村部におけるタックシンの人気は絶大なものとなっていたらしい。

※タイにおけるクーデターは決して珍しいものでもない。ここ50年ほどの間に10回以上のクーデターが起こっているようだ。「クーデター」というと日本人の私にとってはおっかないことのように聞こえるが、感覚としては、「衆議院解散!」のようなものかもしれない。いや、さすがに違うか>_<

--------------------------------------------------------------
●タイの地方部における高齢化の急速な展開
--------------------------------------------------------------
タイにおいて高齢化の速度は非常に速く進んでいる。高齢化社会(老年人口割合が7%)から高齢社会(老年人口割合14%)となるまでの経過時間を国際比較すると、欧州各国で4〜60年かかっているところを、タイではわずか20年程度で移行したという報告がなされている。
私たちはよく「貧乏子だくさん」なんていったりして途上国では、特に農村では子どもが多いイメージがあるが、必ずしもそうではないということだ。特に、GDPが著しく低い農村部において高齢化現象は起きているというのである。

それは、農村から都市へとくに、若い人口が流れているからだ。情報・交通機関が発達したことで、都市への人口流出のスピードは速くなり、その結果、
○農村部:reproductive ageにいる人が少ない
○都市部:高学歴化、晩婚化などで低出生率
という状況になるにいたり、高齢化はとまらないということだ。どっかの国の「三ちゃん農業」を生み出した状況と一緒といえるかもしれない。
貧しい国であればあるほど、所得格差をうめる唯一の方法は、学歴を高くすることだ。学歴を高くするためにはふるさとをあとにしないといけないのかもしれない。

--------------------------
まとめ
今回の勉強会は、いわゆる私が普段勉強しているような内容からは程遠かった。しかし、政治・経済という内容自体は普段見ている社会を別の角度から照らし出すもので、単純に面白い。それに、私が今やろうとしている学問領域を社会の中で、きちんと位置づけをする、という点においても非常にためになるだろうな、という感覚はあった。

それからタイのエイズ対策がドラスティックに進んだのは、タイでは、予算権限が省の局レベルにまで降りてきていることが関係するのかもしれない。
--------------------------


投稿者: inoyo 投稿日時: 2007-7-8 17:55:00 (540 ヒット)

旅とは人生であり、人生とは旅である。
中田英寿


ガイドブックを片手に、見るポイントを決め、そこを訪れる――もし今回のベトナム行きが、彼の言うところの旅であるとすれば、人生はなんて味気ないものか。

スタンプラリーに「そこそこの満足感」しかないように、あらかじめ決まったコースを回るだけでは、心の奥底に灯るアツいものは何もない。それをわかりつつも、一週間という現実的な制約のもとでは、そうせざるを得ない、というのもまた事実である。

長く居ることだけが答えであるはずはないし、観光をすることを否定するわけでもない。地の食を喰らい、酒を愉しむことは、それはそれは楽しいことである。

しかし、そこにはある種の不確実性が存在するべきであって、そうであってこその旅であり、また人生である・・・――というのがどうやら私の嗜好であり、志向であるようだ。


投稿者: inoyo 投稿日時: 2007-1-19 13:52:00 (1132 ヒット)

以前にも書いたナイロビの蜂に関しての評ですが、内容を少し変えて、アフリカ日本協議会の雑誌、アフリカNowに掲載されました。
ご興味がありましたら、読んでみてください。
ちなみに、アフリカNowは一部500円で販売しています。内容は政治情勢からHIV/AIDSの問題、さらには文化にいたるまで盛りだくさんです。お求め方法に関しては、アフリカ日本協議会にお問い合わせください。

■彼女のいる「庭」へ■


舞台は、ケニア、ナイロビ。当地の英国高等弁務官事務所に勤めるジャスティン・クエイル(レイフ・ファインズ)は、庭いじりの好きな、もの静かな外交官であった。性格が真反対の妻、テッサ(レイチェル・ワイズ)とは、価値観やライフスタイルの相違によるすれ違いがありながらも、日々幸せな生活を送っていた。
ところが、そのジャスティンは妻の訃報を聞くことになる。北部のロキへ調査に出かけた彼女が、トゥルカナ湖の湖畔にて変わり果てた姿で発見されたのだ。

妻の死後、遺品を整理する中で、妻の死に疑問を持つようになったジャスティンは、ひとりで彼女の死の理由を調べ始め、事件の背後に、巨大製薬会社、さらには英国本国の利権が絡んでいることを次第に明らかにしていく。妻への想いをただひたすらに、そして、「彼女のいる場所」へ導かれるように、男はすすんでいく。真相の全てを光の下に曝した彼がたどり着いたのは、そう、彼女が果てたトゥルカナ湖。


◇  ◇  ◇



ナイロビの蜂(原題:The Constant Gardener)は、スパイ小説の第一人者、ジョン・ル・カレの同名の小説を、映画化したものである。

この映画が、夫婦の間の普遍の愛や、援助国と被援助国の間に存在する「どうしても超えられない壁」を描き出そうとしているのはよく分かるし、一定の評価はできる。アフリカの光景も何だか懐かしかった。しかし、この作品のファンや、特に思い入れがある方には大変申し訳ないが、映画として、完成度が高い、と思うものでは全くなかった。

というのも、いくらなんでも物語が淡々とすすみすぎるという印象を持ったからだ。ジャスティンが彼女の死の背後にある陰謀を調べていく間が特にそうであった。どこかに行けば、彼は望んでいることを成し遂げるし、誰かに会えば、知りたいことが分かってしまう。映画自体に緊張感だとかメリハリというものはあんまり感じられなかった。さらに、物語の根幹である二人の愛の始まりに関しても描写が乱暴で、活動的なテッサがそもそもなぜうだつの上がらないジャスティンのことを好きになったのかよく分からなかった。(作品の途中まで、アフリカに自腹を切らず渡航するためにテッサはジャスティンと結婚したものだと思っていた。)


一番気になったのは、『ナイロビの蜂』というタイトルである。ジョン・ル・カレが"The Constant Gardener"というタイトルにこめた想いをあまりにも無視しすぎているような気がするのだ。

おそらく"The Constant Gardener"は、ジャスティンの性格、「何かに細心の注意を払って世話をする」とか、もっと言ってしまえば「周囲の動きに無頓着になりやすい」といった性格を端的に表した言葉であって、この映画の中心にジャスティンをすえる重要なキーワードだ。レイチェル・ワイズ演じる妻のテッサがかわいすぎるものいけないのかもしれないが、『ナイロビの蜂』という、興行的に「分かりやすい」タイトルをつけてしまったがために、主人公であるジャスティンがぼやけてしまっている。私が気持ちをジャスティンにダブらせることがなかなか上手くいかなかったのは、その辺も影響しているのかもしれない。

Gardenという言葉も今から考えてみると、「つくられた」平和をシンボライズするものだったのかもしれない。「庭」には、外界から隔離されているが故の「平和」があって、たとえばこれは、殺虫剤の使用によって、つまり多くの犠牲の上で、作り出されたものであったりするのだけれども、(作品中、ジャスティンは殺虫剤の使用をテッサに激しく非難されている。)こういった「閉鎖」しているがために「平和」である「庭」が、彼女の死の理由を探していく旅の中で、彼女の愛や想い、そして外の世界での「現実」に触れ、次第に彼女が見ていた「庭」へと広がって行った――う〜ん、これを映画館で気がつきたかった。


◇  ◇  ◇


「あり続けること」の美しさ、尊さ、「向かいあうこと」の大切さ。もう一度、この作品を見ると違う感想を得るかもしれない。11月10日には早速、DVDが発売になるとのこと。購入はしないだろうが、"The Constant Gardener"としてもう一度見るためにも、レンタルショップにいきたいと思う。


投稿者: inoyo 投稿日時: 2007-1-19 13:49:00 (998 ヒット)

ナイロビの蜂という映画を見に行った。

公開は5月で、ずっと前から見てみたいなと思ってはいたものの、結局見ることができずにいた。ところが昨日、映画を見に行かないか、ということになり、ふとナイロビの蜂について思い出し検索してみると、「下高井戸シネマ」でやっているとのこと。交通アクセスはいまいちなのだが、せっかくなので、小学生のころに祖母につれられ、「マジカルたるるーと君」の映画を見た懐かしの下高井戸シネマを訪れた。

映画の感想としては、正直いまいち、かな。ストーリーも比較的見え見えだったし、現代社会が抱える「アフリカ問題」を表現するという点では、ずっと前に見たホテル・ルワンダの方が上手く伝えていた。結局、どうやっても援助側と被援助側に厚い壁があるということ。

ただ描かれていたものを見て、アフリカっぽいな〜と感じたり、これカメルーンにもあった!とか、ありそう、ありそう、みたいな光景が多数含まれていたので、変なノスタルジーに浸りながらこの映画の筋を追っていた。

気がついたらもう一年経ってるんだもんね・・・。

                    + + + + + + + +

もし、この地球上に日本しかなかったら、
豊かな「先進途上県」と貧しい「発展途上県」に分かれていたと思う。
それでも、この世界で、格差はありつつも、一応、日本という国になって、
大体おんなじ水準にあるのは、それは日本がひとつだからだ。
外国諸国に対して、日本がひとつだからだ。
富める県が貧しき県を引っ張っていってるからである。

そりゃ確かに同じ言葉はなすし、
そりゃ確かに同じような顔をしている。
日本を「ひとつ」に感じやすいかもしれない。
世界を「ひとつ」に感じるよりかは。

でも、
これだけたくさんのニュースが流れて、
これだけたくさんのイメージを与えられたら、
世界だって「ひとつ」感じたっていいじゃないか。

「ひとつ」にならなきゃ、貧困なんてなくならない。


追記(9/19)
作品中に「オックスファムに電話して」というせりふがあり、改めてオックスファムのイギリス社会における認知度の高さを認識しました。


投稿者: inoyo 投稿日時: 2006-10-6 22:40:00 (978 ヒット)

今週からUNICEFの国際協力講座が始まった。この講座は毎週火曜日、品川のユニセフハウスで行なわれる一般市民に対するレクチャーで、国際協力をテーマに様々な人がオムニバス形式で授業を行なう無料のシリーズだ。

今週、第一回目の講師は、「世界で一番命の短い国から」の著者で知られる、医師でフォトジャーナリストの山本敏晴氏である。実は、山本さんの講演を聴きたいと思い情報を探していた最中にこの講座自体を見つけたので、ある意味、私にとってはメインイベンターであった。

内容といえば、そんなに変わったことがあったわけではないが、現実を体験した者しか語りえない「事実」、またその「事実」に裏打ちされた考え方は比較的共感できるものであって、今回参加してよかったなと思った。

山本氏はその話の中で、
○自己満足に陥りがちな国際協力を「本当に意味のあるもの」にしたい。(実際に、どうかは別として。)
○人口増加、資源の有限性から来る、成長の限界が迫ってきており、地球上に住むすべてが持続可能性を意識した生活をするべき。
○医療の問題ですら、政治、経済、環境、教育、公衆衛生などの観点など全てに横断している。(Not only途上国, but also先進国)
といった内容を指摘していた。

コカインを皮膚に擦り込まれて恐怖を感じなくなり、両親をも殺してしまう少年兵の存在や、
彼が「体の不自由な人作戦」といった地雷については、問題の重さを改めて実感した。殺傷能力を半端なものに調節している地雷は、人を殺してしまうわけではなく、体の不自由な人を作り出す。というのも彼らの世話をせざるを得なくなった社会のほうが、経済により大きなインパクトをうけることになるからだ。これは四肢切断などにも共通の理由で、世界中で見られる「作戦」だ。悪魔のささやきとしか思えない。

人口増加の問題も深刻だ。90億を支えるだけのエネルギーはないだろう。40年で枯渇するといわれている石油に代替するエネルギーは今のところない、としか言いようがない。

まぁ、エネルギーがなくなったらみんな農耕に戻ろうぜ。そのときに死ななくていいように、
自分の子どもには、孫には、ひ孫には、自然をマニュアルで改変できる力を養ってもらおう。



気になることをひとつ質問してみた。
---先進国に暮らすことを夢見る、途上国に暮らす人に「国際協力師」はどう向かい合えばいいのですか?

「そこは悩みどころだ」って彼もおっしゃっていた。中国が全員都市化したライフスタイルで生活しただけで、相当持続可能性は失われる、と。更に、何かしらが原因となって、人口が最終的に20億人程度に減るのではないかと、彼は続けた。彼の活動はその「『人類』最大の危機」を少しでも遅くするものである一方、その後の世界で同じ過ちを二度繰り返さないためにも行なっていると。

やっぱりそうなのかな・・・。


彼と同じくして、私も相当将来に、少なくとも現在のアプローチが描く将来に悲観的になっているが、でも、彼と違うのは、彼が、「宇宙船地球号」という表現で、全員が等しく「最後の審判」を受けると考えている節があるのに対し、私は、このままだと、先進国だけが「カルネアデスの板」につかまるのではないか、と考えている、いうことだ。

でも、もしそうなら、そんなの国際協力でも何でもない。「本当に意味のあること」ではない。
「国際協力」の名の下の偽善だ。偽善を認識しない偽善ほど、厄介なものはない。

もちろん現在の国際協力を否定するつもりはなくて、必要条件では絶対あるし、どちらがいいとか、悪いとか、そういう価値判断の元にさらされるものでは絶対ないんだけど、

でも、私は、「開き直り国際協力」がやりたい。


投稿者: inoyo 投稿日時: 2006-9-9 22:43:00 (903 ヒット)

ずっと前に、Goriさんからすすめられていたネクスト・マーケット 「貧困層」を「顧客」に変える次世代ビジネス戦略(C.K.プラハラード スカイライト コンサルティング / 英治出版)をようやく購入し、読み始めた。

って、本当に読み始めたばっかりなので、この本に何が書かれているか、まだまだ分からない。ただ、ひとことで言えば、表紙に書いてあるがごとく、

「貧困層」を「顧客」に変える次世代ビジネス戦略


らしい。BOP(Bottom of Pyramid=既存の経済システムの底辺)市場の大きな可能性をこの本では語っている。

確かに、地球上人口が70億人に達しようとしている現在、途上国と呼ばれる地域に暮らす人の人口は、50億。その人たちを「上手い具合」に、市場活動に巻き込むことができたら、今までの未開の地でも経済は発展し、貧困を撲滅するひとつのきっかけになるかもしれない。(もちろん、お金のフローが上手い具合に彼らの生活に還流していくようにしないといけないのは、もちろんだろう。)


われわれが途上国に介入しないのはなぜか。

まぁ、いろいろあるんだろうけど、「途上国」というOne Wordでくくるあまり、理解が停止している部分も少なからずあるのだろう。そもそも、あれだけ世界各地に広がっている場所を「途上国」としか、われわれは言及しないのは、思考停止といってしまってもなんの差し支えも無いかもしれない。

途上国にだって、車は走っているし、携帯電話を持っている人はたくさんいる。いい製品を買う余裕が無い、というのは一部の真実だけど、それは本当に一部で、他には、いい製品を購入する意欲に満ち溢れている人口がたくさんいる。現に、カメルーンで見たおかしな現象は、お金がなくておなかがすいたといっている人が、携帯電話を持っているということだ。他人が、その人の生活の中で何にプライオリティをおくのか、ということは、すぐには分からない。



本の内容からは少しずれるが、貧困層にアプローチするということでよく考えてみると、貧困層にはたくさんの人材がいることに気がついた。日本の1学年の人口は約120〜150万人。仮に、理科稽爐砲い韻訖佑髻嵳ソ─廚世函¬詰やり仮定すれば(笑)、その中に100人いる。

割合としては、100/1,200,000である。

私は優秀な人材はどの集団にも等しい確率で存在していると考えているので、途上国全体にどのくらいそういった人がいるか、考えてみると、
50億×100÷1,200,000=416,666人
いることになる。これってすごくない?理靴41万人もいるんだよ?

もちろん、今現在、彼らがそこまでのパフォーマンスをするかといえばそうともいえないだろう。基礎教育の問題、また基本的なニーズの不足に苛まれているかもしれない。もしくは、出世コースが世襲システムに阻まれているかもしれない。

でも、素材としてはそれだけいるのはまちがいないしことだし、それだけたくさんの人材を有効活用していない現状は非常にもったいないような気がしてきた。


BOP市場というものへの興味は高まるばかり。

ネクスト・マーケット---どんどん読み進めていきたい。すごくmotivating。(とはいっても、今たくさんの本を平行して読むというなぞの行動をとってしまったので、まだまだたくさん時間はかかりそう。)


投稿者: inoyo 投稿日時: 2006-6-23 22:49:00 (799 ヒット)

ここ最近、毎週のように親知らずを抜いています。

ここしばらく昼間は忙しいし、これからもバタバタするだろうから、急に歯を抜きたいなんていうことは実質不可能なわけで。何でも計画的が一番の日本ですから、なくていいものはなくしてしまえ――ということで、4本の親知らずには口外追放処分の決定がなされました。

それで、ちょうど一週間前、3本目の親知らずを抜いたわけですが、骨と絡まっていたかなんかで、やたらと抵抗があって、約40分の大手術。涙は出るわ、背中汗びっしょりになってるわで、もう大変。でも、何よりも大変なのは、いまだに薬が切れると歯が痛むこと。

こればっかりは本当にひどい話で、薬が切れる午前4時ごろには眼が覚めるし、朝飲んだ薬が効いてくる授業中には眠くなるし、ご飯を食べるころにはまた歯が痛くて、大して食えない。しかも睡眠不足かなんだか頭痛もひどい。

こりゃ冗談じゃない。QOLも著しく低いわけで、余裕なんてないのですね。

口を開けばまず「歯が痛い」、しかめっ面して、指に手を突っ込んでまた「痛い」、しかも無精髭で、髪ぐしゃぐしゃとくりゃ、周りから見たら単なる不快な存在。あぁ、私の周りの人ごめんなさいね。余裕がナッシングアットオールでした。

******************

人は自分に余裕がないとき、大して周囲を見れないものです。それがイイコトだと正当化することは不可能ですが、悪いことでもないような気がします。

私は以前から、私たちがやる「国際協力」は、自分の無理のない可能な範囲だけで行なうものであるからして、それはそれなりの限界があるし、ことによると、「私」たちがめざしている世界には近づけないのではないか、ってそう思ってきました。

だって、自分のおうちが貧乏で給食代を出せないときは、「アフリカ ノ マズシーコ」には募金しないでしょ?

それってどうなのとも思うけど、別にそれがいけないということではないのかもしれないです。

少なくとも私は、自分に余裕がなかったら、募金しない。今は、自分に余裕がないけど、
解約の仕方がわからないから、口座から毎月どんどん引かれていってびびってるけど。

ケニアからメールが来ました。カメルーンからもメールが来ました。はっとしました。
すっかり忘れてたんだもん、何もかも。歯が痛いなんていうことは、ほんの一過性のことです。そんなんでも、こんなんだから、私はなんてへぼいだろうなって思いました。貧乏になって子どもでも生まれたら生きていくのに必死になるでしょうね。

それのどこが悪いんだ?

でも、そんなんでいいのか?


ちなみに、免罪符で、高齢者に席を譲りました(笑)こんなこと言っていて、ますますへぼいですが、とりあえず、へぼさを自覚しながら生きていくことが、今の私には大切なことなんです、ということにしておきます。


投稿者: inoyo 投稿日時: 2006-3-27 22:56:00 (753 ヒット)

中央教育審議会が小学校高学年以上で英語を必修化するよう提言するとのこと。

はて、何をしたいのでしょうか?疑問で仕方ありません。

週一回の授業で本当に英語が身につくとでも思っているのでしょうか?思ってるとは思えないし、もし思っていたとしたら勘違いだと思います。とにかく、意味が全然わかりません。

英語の義務教育化の前倒しを行なう背景には、
〕鳥教育の重要性(の「盲信」)
日本人は英語ができないという(誤認の)事実
があると思います。

確かに、発達段階のより早い段階で外国語を学ぶ環境を整えることは大切なことかもしれません。ただ、どう考えても週一回の授業でそれができるようになるはずはありません。一週間には、24時間×7日=168時間あるわけで。1/168はねぇ・・・。普通に考えたって無理ですね。向こうの子たちは週に100時間以上聞いているわけで。

もちろんやらないよりもやったほうがいいのかもしれません。ただ、やったことで得られる
,泙 △擦い爾た十個の英単語の知識
外国人に対しての恐怖心・抵抗がなくなること
くらいのことが、果たして、莫大な税金投与にふさわしいのか、という話しです。

それから、日本人は英語がなかなかできないということが当たり前のように語られていますが、それが果たして正しいかといわれれば、そういうわけでもない気がします。

アジア各国と、TOEICなどの平均点が比較され、日本人の平均点が相対的に低いということがしばしば取り上げられますが、これが実は巧妙なトリックで、アルクとかの陰謀としか思えません。というのも、日本の平均点が低いのは、受験者数が圧倒的に多いことによるからです。中国や韓国ではエリートしか受けない(受けられない)のに対し、日本は、そうでない方もたくさん受けるわけです。したがって、平均点は自ずと低くなっていくわけです。(もちろん、日本語と英語で使用する音域が異なることも起因します。)

また、英語を話せないという感覚を持っている人がたくさんいることも、どちらかというと内弁慶な国民性によるところが大きいでしょう。

私が今想像する中で、見えている結果は、
‘本語力のますますの崩壊
∈まで中1で英語嫌いになる子が、小5で嫌いになる。
ということです。

大学のはじめの二年間で小学生と向き合っていましたが、何人かとても「ひどい」子を持ちました。ホワイトボードの内容をそのままノートに写せない子、九九ができない子、三角形の図をそのままノートにかけない子、日本語が通じない子・・・。こういった子すら受験をしようとしているということは、もっとたくさん、そうでない子がいるということを暗示しています。

私はこの二年間の経験もあり、ちゃんとした英語教育をしたいのであれば、その前にやることがたくさんあると感じています。基本が何もできていない子たちに、何を教えても、ほとんど意味がありません。彼らの負担を増やすだけですから。

そして、今回のような制度の導入は、そういった子たちをますます混乱させ、何よりも税金の無駄遣いです。お金があるのであれば、中学校の英語教育をいじくるべきです。小学校で九九を教えるべきです。繰り返し繰り返し、ドリルでも何でもやるべきです。もうシステムがあるんだから。そして、既存のシステムの中の努力不足を、意味不明な方法で解決できると思わないことです。

そして、国民全員に英語を身につけさせようとすることはあきらめるべきです。そんなことする暇あるんだったら、日本語教育を、海外に展開していくべきです。ことばは武器なのだから、何も相手が製造した武器を無条件に購入することありません。自分の使い勝手のいい武器を相手に使わせるべきです。


------------------------------------
(時事通信社 - 03月27日 20:15)
 小学校段階の英語教育の是非を検討している中教審外国語専門部会は27日、事実上、小学校での英語必修化を求める内容の提言をまとめた。親部会の教育課程部会に報告され、審議が続くが、必修化実現の可能性が強いとみられる。

 高学年では週1時間程度、共通した教育内容の設定を検討するよう提言。教科書が必要な正式の「教科化」は当面しない。低学年では道徳などと同じ「特別活動」、中学年では「総合的な学習の時間」での教育で充実させる方針。

 文部科学省は2006年度にも改訂を予定する小学校用学習指導要領に方針を盛り込む見通しだ。 
-------------------------------------


投稿者: inoyo 投稿日時: 2006-3-21 7:52:00 (748 ヒット)

去年、小学生の小論文を教えてて、どういうわけか、自殺の話になった。

詳しい話はすっかり忘れてしまったが、かすかな記憶をたどると、生徒の一人が小論文の中で、自殺に触れ、「そんなことをする人は馬鹿だと思います。」といった具合に、意見を述べたのだったと思う。

わたしは、なにか彼らに考えて欲しいと思った。

私は道徳の教師でもないし、聖人君子でもないので、そんなにえらそうなことをいう立場には全くないが、ふたつの文章を彼らに読んでもらった。
ひとつは高史明の『生きることの意味』の前書き、そしてもうひとつは森毅の『まちがったっていいじゃないか』から「君は自殺を考えたことがあるか」だった。

どちらも小学生には少し難しかったかもしれない。でも、両方ともわたしが読んで少なからず影響を受けた本だった。単なる自己満足だったのかもしれないが、彼らの中で何か感じてくれればと思った。


自殺をする人は馬鹿だと思います――


その言葉がどうしてもわからなかったし、同時にすごく怖かった。

自殺をすることは自分の死を軽視していることではないと思う。悩んだ末に下した決断だと思う。そう信じたい。


ただ、他人を困らせるために、あてつけのために、自殺するのは、あまりにも悲しすぎる。
自分で、他人ごときのために、自分の可能性を消し去ることは、あまりに情けなすぎる。担任教諭から注意された直後に自ら命を絶った北九州市の小学5年になる男児。悲しくてしょうがない。どうしてかわからない。

彼の友だちには、思いきり、馬鹿と叫んで欲しい。そしてたくさん泣いて、いつまでもいつまでも、彼の馬鹿さ加減を忘れずいとおしむ優しい子たちでいて欲しい。


投稿者: inoyo 投稿日時: 2006-3-20 17:05:00 (553 ヒット)

16日から19日まで3泊4日、伊豆の修善寺で、
日本国際保健学会学生部会主催のトレーニング合宿に参加してきました。

期間中のスケジュールは盛りだくさんで、
国際保健の一般的な内容から、PCM(Project Cycle Management)や
GISなどの手法にいたるまでさまざま内容を学びました。
それこそ第一線で活躍している先生たちがいらしたので、
内容も当然高いもので、何よりも現場の様子を垣間見れたのが、
私にとっては、大変価値のあることでした。


国際保健にかかわらず、いろいろな仕事があると思いますが、
その中で、私たちのような学生には、
医者や弁護士のような「わかりやすい」職業は別にして、
その他の仕事は、実際に何をしているか、よく見えてきません。

そこが、シューカツの際に、学生たちが迷う原因であり、
仕事の魅力を勝手に増やしたり、勝手に減らしたりするものではないかと、
個人的には感じています。

今回のこのセミナーでは、
そのギャップを埋める作業を少なからずしてくれたと思っています。

それに、参加者たちも多種多様、
基本的に皆、個性派ぞろいで、
おじさんはびっくりしてしまいました。
国際保健というある意味「変わり者がやる」マイノリティな分野を
志している人間たちですので、まぁ、共通点は見つかりやすいのかも。

でも、基本的に皆さんアツくて、いい意味で純粋で、
一緒にその空間を共有できて楽しかったです。

ちょっと話は変わりますが、私はどういうわけか、同年代が苦手なんです。
なんていうか、どう接していいかわからないんです。
代わりといってはなんですけど、
10歳年下とか10歳年上のほうが100倍やりやすい。

でも、今回は同年代の人たちと、ぶつかり合えて、
最高によかったです。
非医療系の皆さんでも、チャンスがあれば是非どうぞ。


投稿者: inoyo 投稿日時: 2006-3-8 7:54:00 (874 ヒット)

いやさ、今もう寝ようと思っていたんだけど、
今日なにかふりかけに書こうと思っていたなぁってふと思い、
思い出してみたらやっぱり腹が立ってきたので、
パソコンを改めて起動しました。

今朝、電車に乗って目に入ってきたのが、
スローライフとかロハスを世の中に広めようとしている
雑誌『ソトコト』の車内吊広告。



いやぁ、朝から不愉快にしてくれたわけで。

もともと、ソトコトの取り組み方、メッセージの発し方には、
気に入らないところがあったんです。
ロハスにしたって、スローライフにしたって、
その概念自体はいいものだと思うけど、
ソトコトのメッセージの発信方法じゃ、
上辺だけのファッションになっちゃう。

私、国際協力してるんです!
環境に大して気を配ってるんです!
あのちゃらちゃらした感じが意味がわからない。
貧困のことを考えている自分によってんじゃねぇのか?

大したことしていないのに、
最大限努力していますみたいなのは、もう鳥肌が立っちゃいますね。
全身の立毛筋がフル稼働で、全身の毛が立ちます。

ほっとけないはもう古い?

は?

古いとか古くないとかじゃないでしょうが!
三秒にひとり子どもが死んでいるという事実に、
古いとか古くないとか、時代遅れとかそうじゃないとかあるの?

ばかじゃねぇの?

ソトコトはね、早くつぶれればいいと思う。
ソトコトが廃刊になった日には日本の市民社会が
途上国への向き合い方として成熟してきたといえるのではないかな。
まぁ、おそらくしばらくはこないだろうけど。


※ただ、今回のこの広告に対して、どういう風に市民が反応するかによって、
「ほっとけない」キャンペーンの成果も見えてくるかもしれません。
というのも、「ほっとけない」キャンペーンは、
貧困問題がすぐには解決しない複雑な問題であることを訴えてきたので。
そのメッセージがきちんと伝わっていれば、同じような、
違和感はあるはずなのです・・・・・・が。

ねぇだろうな。


投稿者: inoyo 投稿日時: 2006-3-1 7:59:00 (753 ヒット)

いい加減、黄ばんできました。
日本に帰ってきて、ホワイトバンドをつけ始めたのですが、
黄ばんできたということは、もうそれなりの時間がっ経ったのだな、
としみじみします。

さてさて、ここのところ、
ホワイトバンドをしてる人をめっきり見なくなりました(よね?)

もちろん、街行く人々が、冬服なので
見づらいということもあるのかもしれないですが、
少なくともホワイトバンドに関しての一連のバッシングなんかは、
「あぁ、昔のこと」、という感じで、すっかり、
忘れ去られつつある気がします。

まだキャンペーン事務局自体はやってるんですけどね。
ホームページは大分充実してきていますが、
やや、out of dateな感もぬぐえずか。

ちょっと話は変わりますが、
たとえば普段100個製造している製品に、
突然人気が集中し、1000個の注文が殺到したとき、
何個工場に発注するべきなのでしょうか?

ナタデココをブームにしてしまうような日本の会社は
おそらく1000個(もしくはそれ以上)発注すると思いますが、
実はきちんとした「ブランド」であれば、
120個であるとか150個しか製造しないものだそうです。
消費者に安請け合いしない、ということです。
神の見えざる手に翻弄されなくていいのです。

あえて品薄状態を作ることで、
消費者に「欲しい」「買いたい」という欲求を強く持ってもらう――
ここで、高めの価格設定をしておけば、この製品を買うということが、
大きなステータスになるのです。そしてより長い人気につながっていきます。

もちろん、ここでポイントとなるのが、製品の質の良さでしょう。
あふれかえるさまざまな商品の中で、輝き続けないといけません。
そうでなければ、他の商品を購入して、満足されてしまいます。
これはとても難しいことですね。
特にここ日本では。

日本人の消費傾向を見ていると、どうも中毒症状がみえる気がします。
消費の仕方が、極端です。

Aばっかりやって、そのあとはBばっかりやって・・・。

ひとつの商品が異様に売り上げを伸ばしたり、芸人が異様に売れたり・・・
そして、あっという間に目の前から消えていく。
この間テツandトモが久しぶりにテレビ出てました。
(面白かったですけど。)

まぁ、ものがあふれていて、何かを手にすることが、
全然特別なことではないのかもしれませんね。
小金もちがたくさんいますものね。
だから、あれもこれもになるんでしょうね。


ホワイトバンドは、もちろん、製品の性質が根本的にちがうし、
キャンペーンなので、期間限定で一気に販売されるものなのですが、
なんだか、結果だけを見ると、気をつけないと、
ナタデココなバンドになってしまう気がするので、
危険な感じがします。


投稿者: inoyo 投稿日時: 2006-2-6 8:00:00 (689 ヒット)

デンマークのとある新聞社がイスラム教の予言者ムハンマドの風刺画を描き、更に、それに呼応して、他のEU諸国でも類似の論説、または記事の転載があった。当然のように、イスラム圏からの反発を招き、大きな問題になっていることは昨今の報道の通りである。

偶像崇拝を特にさけるイスラム文化であるのだから、ムハンマドを肖像画にし、しかも、「バカ」にする内容であれば、このような暴動が起こるのも致し方ない、とも言えるかもしれない。彼らとしては守るべきを守っているのであろう。

一方の欧州。
長年続く不況状況により欧州各国では社会に対して不満は募っている。不況で厳しい雇用市場をより厳しいものにしている(と彼らが考えている)のがイスラム圏からの労働の流入。
その上、アルカイーダなどのイスラム出身のテロリストグループの存在により、欧州には慢性的にムスリムに対して倦厭的な感情があるという。

移民に対しては、このようなネガティブな感情が存在することは、そんなに珍しいことではない。移民の持つ身体的な差異が明確に、「わたしたち」と「彼ら」とをわけ、意識化されやすい。

オーストラリアでは先月、多数いるレバノン系移民に対する暴動が起こった。これも失業率が高いオーストラリアでの社会不安を、レバノン移民に向けたものである。社会不安が存在するとき、人々はそのストレスや不安のはけ口として、その社会の中のマイノリティをたたくのだろうか。あたかも、その行為をすることで、社会としての一体感を感じるように、だ。マイノリティをたたくこと際に得られる一種の高揚感をもってして、漠然とした不安から逃れようとしているのではないか、とすら疑ってしまう。時代は少し遡るが、関東大震災の後にたくさんの朝鮮半島出身者が殺害されたことも同様かもしれない。

小さなコミュニティで暮らしていた「あのころ」は、少数の集団は力がないマイノリティであった。ところが、グローバル化が進む現在においては、人数がすくないといっても、「マイノリティ」が、巨大な勢力であることはしばしばあるのである。時として、(予想外にも、)今回のように大きな反発をうけることがある。

今回の一件がこれからどのような方向に向かっていくかは、分からないが、事態は相当深刻かもしれない。このような事態を再び引き起こさないために、そして、平和で安全な世界を築くために、より一層の異文化理解が必要となる。

グローバル化のポジティブな面に期待したい。



===================================
<ムハンマド風刺画>抗議デモで、ノルウェー大使館に放火
===================================
 【カイロ支局】欧州の新聞がイスラム教の預言者ムハンマド(マホメット)の風刺漫画を相次いで掲載し同教徒が反発を強める中、シリア・ダマスカスで4日、数千人規模の抗議デモがあり、「デンマークでコーランを燃やす集会がある」とのデマ情報に扇動された参加者が同国大使館などのあるビル(4階建て)や近くのノルウェー大使館に放火した。いずれも大使館関係者に被害はなかったが、建物は大きな被害を受けた。また、レバノンのベイルートでは5日、デモ隊がデンマーク総領事館に放火した。治安当局は催涙ガス弾でデモ隊を解散させようとしたが、衝突でけが人が出ている模様だ。
 ◇参加者がデマ情報に扇動され…シリア・ダマスカス
 デンマーク、ノルウェー政府は4日、シリア国内の同国民に退避勧告を出し、シリア政府に抗議した。ノルウェー政府によると、シリア側は謝罪したという。また、EU(欧州連合)議長国のオーストリアは4日、「欧州の市民や財産への脅威であり容認できない」と暴力的な抗議活動を非難した。
 デンマークの新聞が昨年9月に風刺漫画を掲載し、欧州各紙が相次いで転載したことが発端となり、ダマスカスでは先週以降、デンマーク大使館前で連日、座り込みデモが行われていた。
 AFP通信によると、この日、一部のデモ参加者の携帯メールに「コペンハーゲンでコーランを燃やす集会がある」との情報があり、興奮した参加者たちが警官隊の警備を突破し、ビル入り口付近で家具を燃やして放火し、投石を繰り返した。実際には集会は行われておらず、情報はデマだったとみられる。
 デンマーク大使館はビル3階に入っており、同じビルにはチリ、スウェーデン両大使館も入居していた。この日、ビルは休館で各大使館の職員の大半も休んでいた。
 デモの参加者らはその後、約1キロ離れたノルウェー大使館に移り、警官隊を突破して建物に侵入して放火した。さらに近くのフランス大使館へも移動したが、警官隊が催涙ガスなどで鎮圧した。

(毎日新聞) - 2月5日20時20分更新
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060205-00000049-mai-int


投稿者: inoyo 投稿日時: 2006-1-29 8:09:00 (826 ヒット)

世界の人々は、あの映像を見て
怖いねというだけで、
ディナーを続ける――
これは、映画「ホテル・ルワンダ」の1シーン。ルワンダの虐殺シーンを取材したカメラマンの台詞だ。

ホテルに宿泊していたカメラマンの一人は、虐殺シーンを取材してきた。この映像を見れば、必ず助けが来ると思ったルワンダ人の主人公に対し、彼は、酒に酔いながら悔しそうに言った。

世界の人々は、あの映像を見て怖いねというだけで、ディナーを続ける――

今の(大多数の)先進国の人たちの姿勢を端的にあらわしていると思う。そしてホワイトバンドが、これを助長するだけのものにならなければいい、そう思う。

「貧困? 知ってる、知ってる、かわいそうだよね。」
「かれら」も幸せになれればいいのにね。」
「よかったね。私たちは、こういう世界に生まれて。」
「幸せって、こういうのを見たときに実感するよね。」

本当にそれでいいのだろうか。一歩先へ。
もし、貧困を撲滅する必要を感じているのなら。


投稿者: inoyo 投稿日時: 2006-1-23 8:16:00 (696 ヒット)

昔、何故ゴキブリがあそこまで毛嫌いされるのか、ということについて考えたことがある。

実は私は幼少のころより、ゴキブリを家で見たことがない。

私が2歳の時分に引っ越して暮らし始めた横浜の家は、(なんかいやらしい言い方だが、)当時新築であった。新築であった上に、近所に飲食店もなく、しかも、駆除剤を建築時に大量に散布したためか、ゴキちゃんは、一回も現れなかった。それは今の居住でも同じ。一回も現れない。

しかもどういうわけか、数々の旅先でも、ゴキブリを見ることはなく、ゴキブリがどんなものであるか、よく分からないで大きくなった。

高校のときに、ホームステイをして、その家でしばしば現れる褐色の虫に向かって、Cockroachがでたぁ、といっているのを聞き、辞書を引いて初めて、それがゴキブリであると認識したくらいだ。

そして実は、そんなにゴキブリは気持ち悪いものではないのではないか、なんていう風に感じるわけである。辞書を引くまでは気がつかなかったわけだから。つまり、私が言いたいのは、生まれてきた社会のゴキブリのイメージが、それぞれのゴキブリ観大きく影響しているのではないか、ということだ。

ゴキブリちゃん、確かに歩き方は気持ち悪い。一直線に進む姿には恐怖すら感じるし、
なんとなく見た目的に「くさい」ような気がする。

しかし、スズムシとどれだけ違うのか、といわれれば、見た目、という観点からは大差ないのではないか。スズムシの飛び方はなんだかかわいらしいし、秋の夜長にあの鳴き声を聞くのはなかなかの風物である。しかし、食べようと思っていた食べ物を動かしたときに、後ろから出てきたら、スズムシといえども、ぶったまげるのではないか。

そこで仮説である。

ゴキブリが人間にあそこまで嫌われるのは、人間の縄張りに入り込むからなのではないか。人間の生活の範囲に入ってこなければ、ゴキブリといえども、誰も文句は言わないだろう。スズムシは、縄張りの外で、勝手に鳴いているのだ。

今回、彼らは縄張りを荒らしすぎたのか。堀江社長が容疑者になった夜、ふと、ゴキブリのことが頭をよぎった。

逮捕劇でゆれるライブドア、今後はゴキブリ張りの生命力の強さ、しぶとさを期待したい。
そして、スズムシ楽天は大丈夫なのだろうか。スズムシは冬を越せないの。


投稿者: inoyo 投稿日時: 2005-12-23 8:20:00 (718 ヒット)

最近、テレビのワイドショーを何組かのカップルの離婚がにぎわせている。あそこは仲良かったんじゃないの?みたいなところも、ころっと別れて、改めて、「作られたイメージ」のはかなさを感じる。

芸能人はさておき、ここ日本でも離婚というものが、幸か不幸か、市民権を得始めている。

私の周りでも、離婚する、しない、みたいなことがある。あった。そんな話を聞くたびに、不思議、というよりかは、(なぜか私が、)不安で、そして、切ない思いをした。

やっぱり、その人たちのさまざまな思いに、触れてしまうからだろうか。

とにかく、

経済的な独立を女性が果たすにつれ、女性は、男性と、より対等な地位を築き、離婚しやすくなる。現に、金銭的な問題のために、離婚をすることができない、という女性は、多いはずだ。(もちろん、他にもたくさんの原因があると思うが。)

芸能人の離婚が比較的頻繁に起こるのも、このことが少しは寄与していることだと思う。
つまり、経済的な自立があるために、無理に嫌いな旦那のパンツを洗わなくとも、いつでも自由にはばたいていける、ということだ。

私的には、結婚というものが、「愛の証」であるのであれば、私の妻となる人には、経済的に独立していてほしい。ちゃんと、財産は半分にしておきたい。いつでも、どこかにいける(笑)状況の上で、私を見ていてほしいなって、そう思う。

そういった緊張感が必要な気がする。

そして、それは、「愛のささやき」の偽善的な響きに対する、私なりの戒めであり、「配偶者植民地計画」に陥らないようにするための、自己防衛手段であるのかもしれない。

あなたを一生幸せにします。

は?

言い切ってしまうことに、適当さを感じます。やっぱり、いえない。そうじゃないだろ?

私は、もうプロポーズの言葉を考えてますからね。
どうでもいいし、今は時期じゃないし、
今はちゃんと言う相手がいないから秘密ですけど♥


投稿者: inoyo 投稿日時: 2005-11-21 8:26:00 (804 ヒット)

私が今働いているNGOの写真展が、12月2日より、目黒駅駅ビル“アトレ”の6Fで行なわれます。1月15日までです。大変小規模ですが、入場料は無料ですので、ぜひどうぞ。

貧困をテーマに、皆さんに感じていただきたいことをしっかり表現したつもりです。

貧困問題を語るときに、大切なのは、ネガティブなイメージだけを投影することではなく、そこに生きる人と、ここに暮らす私たちがつながっていることを感じていただくことだと思っています。

それが、私がカメルーンで暮らしたあとにえた、
ひとつの答えでした。

もちろん、悲惨な状況があるのは事実だし、それを矮小化するのは間違っているけど、大切なのは、そういった状況においても、人は生きようとしていること。未来を見ているということです。

それをしっかりとあらわしたいと思っています。

って、ここまで読んでくださった方は、おわかりになったかと思いますが、この私が写真展の企画をおこないました。

カメルーンで感じたこと、少しずつ出していくつもりです。


« 1 2 (3) 4 5 »