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国際保健/開発:国際保健や開発に関して私なりの論を展開しています。
フィールドノートから:フィールドでの試行錯誤。
FYI:興味深いイベントを紹介!
ツレヅレ:書評、映画評、ツレヅレと。
投稿者: inoyo 投稿日時: 2009-11-25 17:41:28 (1155 ヒット)

 先日、帰る道すがら、昔からの知り合いにあって、英語の勉強法の話になった。最近、中国語で四苦八苦しているだけに、彼と別れた後も、外国語学習について考えてしまった。

 日本には外国語でコミュニケーションをとれないといって悩んでいる人が多い。英会話スクールにいったり、リスニング教材を購入して勉強したり・・・と、みんな努力しているけど、それでも悩んでいる。

 個人的にすごく重要だと思うのは、コミュニケーションのボトルネックをはっきりさせることだ。英語が分からないのか、内容が分からないのか。当然のことだけど、現状がどちらかで、とるべき対策はまったく違う。たとえば、自分の専門の話を英語で理解したいのなら、英会話スクールなんかにいくより、関連分野の単語をまずは丸覚えしたほうがいい。会社の取引先で交渉するなら、自己紹介を覚えるよりも、製品名とかサービス名を英語でなんと言うか覚えることが重要だ。(自己紹介なんて名前いってニコニコしていれば大丈夫だろう。)

 ちなみに私は、伝えたいことが最低限伝わって、聞きたいことが最低限分かればいいと思ってきた。だから私の英語と中国語はだいぶ荒削りだ。とくに中国語に関しては、実地訓練しかやっていない。(もちろん不満足な中国語だけど・・・。) でも、周りにいるアジアの留学生の英語と触れているとその思いをますます強くする。それにネイティブレベルにするにはコストが高すぎるので、むしろ無駄とすら思う。

 ただ気になるのが一点。自分が将来「中国研究者」を名乗るとしたら、きれいな中国語を話して書けないと、信頼されなそう。そう考えると、どのレベルが求められているか(≒言葉の出来不出来で、どのくらい勝負が決まるか)をはっきりさせるのも重要だな。

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※少し宣伝。友人の会社がMBAを目指すビジネスマン向けの英語学習サイトをはじめました。
http://www.sqript.net/
もう少しでリニューアルオープンするらしいです。ご愛顧ください。


投稿者: inoyo 投稿日時: 2009-11-16 17:46:02 (1124 ヒット)

 自らの政策を打ち出し、有権者の支持を受け一票をとることはとても大切なこと。しかし、だからといって一票のために何をしてもよいわけではない。
 高度経済成長期ではないのだから、右肩上がりで、みんながみんなハッピーになる、ことなんてありえない。有権者にとって厳しい政策が、日本という国全体を考えたときに最善策であることがある。そういったとき、政治家は自分の当選を脅かす意見表明だったとしても、より広い人々にベネフィットがあり、そしてより長期的なメリットがあるような意見を表明しなくてはならない。間違っても甘言を並べ立て、次回の選挙に当選することだけを考えてはいけない。おそらく、それができるかどうかは「政治家の品格」にかかっているのだろう。

 確かに事業仕分けをすることは大切だ。そもそも無駄はあっていいものではないし、どんどん少子化が進む社会において、少ないリソースを有効活用することは、ますます必要度を増している。しかし報道を見ていると、大局を見ているというよりかは、前回の選挙のつけを払うためだけに、何も分かっていないクラリオンガールが仕分けをしているように私の目には映る。

 スーパーコンピュータが「無駄」かどうか、人によって感じ方は違うのはもちろんだ。路上生活者はそんなハイテクよりも、一切れのパンの方がよほど必要だろう。でもほかならぬ「資源がない日本」が、世界で戦っていくことができる唯一の方法は、科学分野をはじめとした知的産業の活性化のはずだ。母校の初代校長が昭和30年代の初頭に言っていたこと、「頭脳の資源化」という言葉の重さを強く感じる。

 それにしても日本はいつのまに、あの国より社会主義になったのだろうか?


投稿者: inoyo 投稿日時: 2009-11-9 18:07:44 (893 ヒット)

 タバコの増税が現実味を増してきた。いったい、ひと箱300円がいくらになるのか。
 
 タバコは元来吸わない私ではあるが、調査地にはたいていタバコを持っていく。村の人たちにあげるためだ。「日本のタバコはとても濃くてうまい」といって彼らにはすこぶる好評だ。みんなに頼まれるのでカートンで買って持って行っている。健康のことを研究しているのに、井上はタバコを配って人々を肺がんのリスクに曝しているのか、という批判を受けそうだが、彼らも自分たちでリスクはわかっていて、吸う吸わないは彼らのチョイスだから、個人的にはいいのではないかと思っている。
 
 ただこれ以上値上げされるとさすがに持っていけない。
 
 確かに欧米諸国と比較すると日本のタバコは「安い」だろう。中国のタバコと比較したって、物価水準を考えると、「安い」といえるだろう。彼らが吸っているのは5元(65-70円)くらいの安いタバコだが、袋入りのインスタント麺が10円ちょっとで買える場所であることを考えると、日本のタバコの割安感が際立っている。

 だから財源確保のために少し値上げしても消費量はそんなに減らないだろうから、確実に税収増を見込めるだろう。ただ一部の政治家が「健康のためにタバコの値段をあげよう、むにゃむにゃ…」とのたまうことには、あまりいい感じを持たない。(それと同じくらい、タバコ税は大衆税だから・・・と反論する政治家にもあまりいい感じは持たない。)
 
 国の財源確保のためとか、肺がんが増えると国の医療費が増大して困るからとか、なぜホントのトコロを言わないのだろうか。「健康推進派」の発言を聞いていると、どうしてもなんであんたに私の健康の気遣いをしてもらわなくてはいけないのかと反発したくなってしまう。どうも私はパターナリスティックな発言に過敏に反応するようだ。もうすこし素直になってみてもいいのかもしれないけど、なんかすっきりしない。うーむ。


投稿者: inoyo 投稿日時: 2008-4-21 14:52:05 (1218 ヒット)

環境問題のウソ (ちくまプリマー新書)書評
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科学にウソはない。

 この本には共感できる部分と共感できない部分の両方が存在した。とはいえ、環境問題に共感するとか共感しないとかいった話はおかしいし、本書が中高生を対象にして書かれていることを勘案すると、あまり良書とはいえないと思う。少なくとも環境問題の全体像を学ぶ人には薦められる本ではない。たとえば、私の中学生のいとこにはなかなか薦めることができない。

 筆者がこの本を通じて言いたかったのは、

すべての行為にはメリットとデメリットがあり、メリットよりデメリットの方が大きい時は、メリットのお題目がどんなに立派でもおやめなさい、という実に単純なことだ。(p.77)
というところだろう。まぁ、メリットとデメリットを比較して行動を決定するというのは、極めて当たり前のことなのだが、たとえば、ダイオキシンの排出に厳しい規制をかけることや、温暖化対策として二酸化炭素の排出を規制することが、筆者の目にはコストパフォーマンスが悪かったり、「科学的根拠」に基づいていない所業に映るらしい。

 まず、メリット、デメリットを測るのは非常に難しいことだ。エンドポイントをどこにするかによっても大きく変わるだろうし、個人の立場―たとえば、先進国に住んでいるとか、途上国に住んでいるとか、もしくは科学者であるとか、政策決定者であるとか―によっても、大きく変わるだろう。もしかすると筆者の言うことが「真実」かもしれない。

 かもしれないが、ひとつおかしなところがある。それは、筆者が最後の最後になって、
第一章の地球温暖化問題と第二章のダイオキシン問題については私の専門外でもあり、多くの図書を参考にした(p.166)
と逃げ道を作ったことだ。これは正直、どうかと思う。もし筆者が科学者であるのであれば、自分が研究したことに立脚して述べるべきであって、批判する資格すらないように思える。

Science is always tentative.
 それでもそれでも万が一、筆者の言うことを聞いて、それが正しかったとしても、それは「環境問題のウソ」が存在していることにはならない。科学における「真実」は(そう、あくまでかぎかっこつきの真実なのだが、)常によりもっともらしい「真実」に更新されうる。Bertrand Russellが言うように、Science is always tentativeなのである。だから私は、「環境問題のウソ」って言い切ってしまうこと自体に一番の危うさを感じるのだ。
 それに、どう考えてもIPCCの方が「真実」を語っているような気がしてしまう。第一、世界中の専門家が集まって検討しているのに、この著者のアイディアを考慮しないということがどうして起こりうるのだろうか?IPCCでは世界各国2200名の専門家のうち、450名にまで絞り込んで研究に望んでいるという。「真実」は多数決で決めるものではないが、だとしても、だ。

余裕があるから自然環境保護を訴える
 とはいえ、この本で共感する部分がなかったわけではない。たとえば、「自然と共生するのに必要なこと」という箇所で出てきた次のくだりである。
自然保護の思想の背景には衣食住が足りた豊かな生活があるということだ。飢えて死にそうな人の前に絶滅寸前の動物しかおらず、他に生き延びる手段がこの人になければ、この動物は食われるだろうし、それは当然なことである。人間の個体の命より、他の生物の種の存続のほうが大事だなどというのは、アホな倫理学者のたわごとでしかない。(p.155)
「アホな倫理学者」が本当にアホであるかは少し微妙だと思う。が、そのほかの部分に関しては、大筋で同意する。たしかにそうだ。環境問題には一種の危うさがある。だれも、今の生活をおくるだけで精一杯な時、環境問題のことを考えやしまい。

 よく「地球環境を守ろう!」「この美しい星を守るために!」という一見きれいで聞いていて心地よいスローガンが目に入る。確かに人の気を引くためにはいいのかもしれない。しかし、問題の本質を誤らせる可能性を孕んでいると思う。ソトコトとか読んで、お洒落なカフェで無農薬野菜のランチかなんかを食べて、「私の生活、ロ・ハ・ス♪(※)」とかいっている人は、完全にこういったスローガンの副作用的存在だ。

 そして、それこそ「環境問題のウソ」ではないだろうか。

 わたしたちが取り組まないといけないのは、他でもない人間が生存していくためには何をしなくてはいけないのか考えること。そして、それは喫緊の問題である。筆者の本意とは少しずれるが、個人的にはこの筆者の一節にそういった意味を見出すことができると感じた。

(※)ロハス、LOHAS:Lifestyles Of Health And Sustainabilityの略。


投稿者: inoyo 投稿日時: 2008-4-16 23:35:05 (1502 ヒット)

環境人類学を学ぶ人のために書評
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 もし環境人類学を初めて学ぶのであれば、まずはこの本に目を通すと良いだろう。それは、この本が扱うトピックの範囲が幅広いからだ。ブタや植物などの自然資源をヒトがどのように利用してきたか明らかにするクラシカルな研究から、地球環境問題の解決のために人類学が提供しうる価値の紹介にいたるまで幅広く、まさに原題のサブタイトル"From Pigs to Policies(ブタから政策まで)"の通りである。また、巻末に収録されている「環境人類学を学ぶ人のための読書案内」(訳者)も環境人類学の成立過程に触れており、その思想の系譜を理解するのに役に立つ。

◇ ◇ ◇


 パトリシア・タウンゼントは序文の中で、「数ある学問の中で、人類学は、われわれ人類が作り出してしまった環境の混乱を解決する上で、適度な謙虚さと十分に幅広い視野を有している」(p.20)と述べている。

 もっとも、「われわれ人類が」という表現には、ブーイングがあがるかもしれない。「環境を混乱させた人」と「環境の混乱に巻き込まれた人」の間には明確な差があるからだ。「環境を混乱させた人」のみがおおきな恩恵を受けていることも、そのブーイングを大きくする理由のひとつだろう。
 とはいっても、実際に解決するためには、資金だったり、政治力だったりが必要なわけで、「環境を混乱させた人」たちにやる気を出してもらわないといけない。そして、やる気を出してもらうだけではなくて、きちんと「環境の混乱に巻き込まれた人」の言い分を聞いてもらって、その上で解決に取り組んでもらわないといけない。

 たとえば、ニューギニアのオク・テディ鉱山の周辺では、「孤立していたがゆえに守られてきた」人々の生活が、多国籍企業の進出により壊された。住民が労働者として雇われ、彼ら独自の文化は失われていった。治安が悪くなったり、人の出入りで今までなかった疾病が持ち込まれた。鉱山からの重金属の排出は自然への大きな負荷となった。まさに彼らの「権利が急速に脅かされ」たのである。そして、彼らにはそれに抗う手段はなかった。そして、今も申し立てをするすべはほとんどない。

 そんな時、「先住民の代弁者」(p.87)として、環境人類学者が活躍する可能性があると筆者はいう。フィールドワークによって得た知見、また、ものの考え方というものが、「先住民と開発者側の調停者としての役割」(p.87)を果たすことを可能にするというのだ。先述したとおり、適度な謙虚さと十分に幅広い視野と筆者が言っているのも、(少なくとも実践的な意味で、)人類学者が文化相対主義の立場を取り、さまざまな事例を少し引いた視点から見続けてきているからであろう。

◇ ◇ ◇


 他にも、ハザードやリスク、生物多様性や大量消費社会など、幅広く扱っており、今日の「環境とヒト」を考える上での、新しい視座を提供してくれる。

 それにしても、「環境を混乱させた人」は都合がいい。今、こうして環境問題がにわかにホッとになっているのは、環境ビジネスが成立しうるから、とか、企業イメージの向上やつながるからとか、投資対象になりやすくなるから、という理由でないとよいのだが・・・。


▼キーワード
文化生態学、ジュリアンスチュワート、文化の核、多系進化、単系進化、民族生態学、ラパポート、コモンズ


投稿者: inoyo 投稿日時: 2007-10-29 17:39:00 (501 ヒット)

脳死臓器移植の可否の意思表示に関して議論される際に、自己決定権と呼ばれるものがベースにある。自分の人生における決定は、公共の福祉に反しない限り、自分の判断で下すことができる、という権利である。確かに、何を食べたいとか、どこに暮らしたいとか、何を生業にしたいとか、そういうことは可能な限り認められるべきなのかもしれないが、それは果たして自分の命の長さに関しても同様に適応されるべき権利なのであろうか。

数日前のニュースで、家族の臓器提供に7割の人が賛成していると言うニュースがあった。
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脳死下での臓器提供の手続きを定めた臓器移植法が施行されてから16日で10年になったのを機に、朝日新聞社は13、14の両日、全国世論調査(電話)を実施した。家族が意思表示カードなどで提供意思を示して脳死になった場合、提供に賛成するとした人は71%、反対が17%だった。現在の法律では認められていない15歳未満からの臓器提供については、46%が年齢引き下げを支持した。
http://www.asahi.com/life/update/1016/TKY200710160395.html
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自死に比べて、脳死臓器移植に関する死の決定は比較的社会に受容されている。しかしながら、自分の死に関して同じように自己決定をなされたという点では似通っている。それでも少なからず大きな差が生まれるのは、その死が「無駄死に」ではないとされていること(=つまり何らかの意味づけをされやすい状況になっているということ。)、そして何よりも制度化されたことにあるのだろう。(※1、※2、※3)

私は、臓器移植においても自己決定権のひとことですべて片付けてしまうのは、いかがなものなのだろうかと思うし、なによりもちょっぴり「寂しい」。(※4)つまり、「私」は必ずしも私個人だけのものではなくて、社会的な存在としての側面をも持つ。その「私」の命を、仮に他の命を助けることがあるにせよ、私個人の判断で絶つことは、殺人と変わらないのではないだろうか。そして、私の親族が体温が暖かいままに、その臓器を引き抜かれ、そのまま死んでしまうということになれば、それは寂しいことだ。すくなくとも冷たくなった祖父の遺体を目の前にした14のころの私であれば、きっと冷静に割り切ることはできなかったはずだ。
それに仮に、人を助けることができるという「大義名分」があるにせよ、その大義名分が微妙にすりかえられていってしまう可能性は少なからずあるという意味では、いずれにしろ非常に怖い。

それでも、家族の脳死臓器移植に対して71%もの人が受容しているのは、たぶん、自己決定権に対する、一種の諦観(あきらめ)が私たちの中にはあるのだろう。その人が決めるのだから、周囲は口出しをするべきではないという感覚の存在――本当はいやなんだけど、なんとなく違和感を持ちながらも納得せざるを得ない――があるのではないか。

しかしながら、自己決定権という「専門用語」に縛られる必要はないのである。医学モデルのみで世界を固められ、そこにある「つながり」を阻害される感覚がもし私たちにあるのだとすれば、それには明確にNOというべきである。そもそも医学モデルだけで世界を捉えることは不可能なのである。

そう考える私には、小松美彦の「死は共鳴する」という言葉、また健康科学・看護学科でならったPerson-in-Contextという言葉は非常にしっくりくるのである。

医学だとか医療従事者への信頼というものは、素人が理解できないことがら、もしくは冷静な判断ができない状況の存在の裏返しで成立してきた。(※5)そして、強大な依存を医学に対して私たちはしてきた。しかしだからといって、その医学モデルに拘束されるのは、完全に本末転倒であるのだ。

◇  ◇  ◇


たぶん自分の家族が脳死臓器移植が必要な状況に陥ったとき、私はどうなるのか、よく分からない。「よく分からない」というのには、いろいろなフェーズがあって、(1)そもそも移植を受けるべきか受けないべきか決定が下せなそう。(2)受けることにしても、ドナーが死んだという事実の存在を頭の片隅から消し去ることはできない。(仮に消し去る必要がないとしても、そういう意味ではなく、人生の中心的命題として常に目の前にfloatingしそう。)(3)受けないという決定をしたときは、家族を「見捨てた」ような感覚に陥って良心の呵責に悩むかもしれない。

さらに身勝手なのは、家族がドナーになることよりも、レシピエントになることのほうが受け入れやすそうと言うことだ。全く以って無責任だな。でもこれが本音かもしれない。

と、こういう風にやってむにゃむにゃ、人類がただでさえ忙しいのに、考えないといけないところに医療技術の進展による「人間疎外」の問題があって、さらに問題なのは、これがモダンタイムスで語れらたのと同列で語られないことなんじゃないかなと思っている。それは、なんだかよく分かるようでわからない「正統性」が医学にはあるからだと思っていて、最先端医学と言う文脈でも、国際保健協力という文脈でも全く同じなんだけど、「人の命を助けるゾ!」という正当性のようなものを前面に出すことで、とりあえずみんないろんな不都合はおいておいて納得しちゃう。そういう意味では、「医」と言うものはきわめて特殊なのではないだろうか。産業が発展するって言ったって、やっぱり人は単調な機械作業には耐えられなかったんだけど、医療の場合は、結構、 「不都合」へ反応する閾値が高い。もちろん、それだけ「命」に価値を置いているって言うこと、といってしまえばおしまいなんですが。

◇  ◇  ◇


日本人の死、それからその裏返しの生に対する価値観って言うのは、西洋的なものとはやっぱり違うんだろうから、そういう意味では、日本の基準をしっかり作ることが大切なんだと思う。生に対して思いっきり固執するかと思いきや、意外と死に対する諦念がある気もする。ピンピンコロリみたいな話だ。

しかし、ピンピンコロリがいいと散々いっていたはずの祖父が、何度も入退院を繰り返すようになって、俺は、まだ死にたくない、こんなはずじゃなかったというようになったいくのをを聞いていると、死を実際に(ある程度)意識したときに、また人の死生観っていうのは思いっきり変わるんだなと。そこもまた難しい話だ。

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(※1)「死ぬ意味」が「生きる意味」を超えたら果たして死ぬに値することになるのか。それを制度として受容するということはいかなることなのか。
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(※2)波平恵美子の『医療人類学入門』の中に書いてあった臓器移植へのネガティブな国民感情から考えると、だいぶ状況は変わっているようである。私個人も、一時期は臓器提供意思表示カードを持ち歩いていたものである。
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(※3)その死が「無駄死に」ではないということは、臓器移植推進派による一連のキャンペーンによって声高に叫ばれている。どこどこの難治性患者がアメリカにわたるためにたくさんの大金を募金で集め、アメリカに何とかわたり、手術成功しました、日本では臓器移植の制度が成り立っていないから、わざわざアメリカに行かないといけないんです・・・。しかし、ドキュメンタリーで取り上げられるケースのほとんどが、レシピエント側(しかもハッピーエンディング)であり、ドナー側が完全なブラックボックスになっていることは、福音としての脳死臓器という面のみの強調になっていよう。
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(※4)小松美彦がほぼ同様のことを述べているので、詳しくは、そちらを参照のこと。(「脳死・臓器移植の本当の話」
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(※5)基本的に、インターネットの検索でなんでも「暴かれる」状況が作り出されているのは、医療従事者の専門性の相対的な低下をもたらす。マジックの種をばら撒かれたときに、それでもマジシャンはマジシャンでいることができるだろうか。
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家族の臓器提供に賛成7割 本社世論調査
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2007年10月16日23時02分

 脳死下での臓器提供の手続きを定めた臓器移植法が施行されてから16日で10年になったのを機に、朝日新聞社は13、14の両日、全国世論調査(電話)を実施した。家族が意思表示カードなどで提供意思を示して脳死になった場合、提供に賛成するとした人は71%、反対が17%だった。現在の法律では認められていない15歳未満からの臓器提供については、46%が年齢引き下げを支持した。
 99年3月の調査(面接方式)では、同様の条件で家族が脳死になった場合の臓器提供に賛成は61%で、今回はそれより増えた。20、30代では賛成が8割を超すなど若い世代ほど高い傾向にある。
 現行法では脳死下の臓器提供には、本人の意思表示と家族の承諾の両方が必要。だが同法に基づく臓器提供が10年間で62件にとどまっていることから、家族の承諾だけで臓器提供できるようにする改正案が提出されている。調査で提供に本人の意思確認が必要かどうかを尋ねると「必要」は48%で、「家族の承諾だけでよい」の40%を上回った。
 15歳未満の子からの提供を「認めるべきだ」としたのは46%で、「認めるべきではない」の35%を上回った。「認めるべきだ」とした人のうち、下限年齢を「12歳まで」としたのは22%。「年齢制限をなくし乳幼児にも認める」としたのは66%だった。
 脳死を人の死と考える人は47%。99年5月調査では52%でほぼ横ばい。今回、心臓停止に限るべきだとした人は34%(前回30%)だった。
(朝日新聞 http://www.asahi.com/life/update/1016/TKY200710160395.html)
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投稿者: inoyo 投稿日時: 2007-10-21 17:36:00 (504 ヒット)

本郷三丁目のスターバックスを出ると、目の前で鳩が死んでいた。特に外傷があるわけでもなく、ポテンと「普通」に。

鳩に限らず、鳥が死んでいるところを見ることはなかなかない。私の人生の中でも、鳥の死体を目にしたのは、本当に数えるばかりである。犬・ネコなどの愛玩動物は飼い主がいるので、飼い主に葬ってもらえていて、私たちがその死体を目にすることがないのは当たり前だとしても、ハトを飼っている人は、ほぼ皆無だろうから、もっとたくさん死骸を目の当たりにしてもいいような気がする。特に、あれだけごみ置き場をたむろしているカラスを飼っている、なんていう話はいまだかつて聞いたことがないから、あのカラスたちの老後の行方は非常に不思議だし、もう少し道端に転がっていてもいい気がする。しかし、それを私たちが目にすることはほとんどない。

・・・という話を以前友人にしたら、動物には死の概念がなく、苦しければ自分が攻撃を受けていると認識し、身を隠すのだ、と話していた。それを思い出し、今さっきGoogleで検索したら、やはり同様の内容が出てきた。記事に因ると、ネコの場合、
-----
自分自身の死という概念を持っていないので苦しければ自分が攻撃を受けていると思ってしまう。その攻撃相手から身を隠そうとするのが当然の反応。身を隠してひとりになり脅威のもとが通り過ぎて苦しみが和らぐのを待つとあり、体調が優れないと本能的な防御反応として安全な場所に身を隠す。
-----
つまり、動物が身を隠すまもなく動けなくなる場合しか、私たちは、その死体を目にしないということなのだろう。そうなると、さしずめ心筋梗塞か、脳血管障害か。ちなみに、以上の内容は、Catwatchingという書籍に書いてあるらしい。しかも、トリビアの泉にも紹介されているとのこと。

この書籍ではネコの場合のみ言及しているのだが、鳥の場合も同様のことが言えるのかもしれない。立つ鳥あとを濁さず、とはこのことか・・・。


投稿者: inoyo 投稿日時: 2007-8-27 17:51:00 (541 ヒット)

深夜のドン・キホーテのアルコール売り場をうろうろしていると、見覚えのある焼酎が眼に入った。さつま白波だ。今からちょうど十年前に死んだ祖父が好んでよく飲んでいた。

今から10年前には、私はもう中学生だったので、当然記憶ははっきりしているべきなのだが、どういうわけか、思い出せる記憶は数えるほどしかない。そんな中、鮮明に残っているのが、さつま白波を一升瓶からグラスに注ぎ、キャップをポンッと押して戻す祖父のしぐさだ。芋焼酎が今のようなメジャーなものではなく、むしろ、貧乏人が飲む安い酒だった時から、その酒を祖父は好んで飲んでいた。

   あれから十年がたち、みな少なからず変わった。祖父が生きていたら
   どう言うだろうと考えることがないわけではない。

せっかく眼に入ったのだから、と思って、さつま白波を購入した。一升瓶を買おうか迷ったが、飲みきれないときのことを考えて、半分のサイズの小さい瓶を買った。24の私にはちょうどいいサイズなのかもしれない。

   これからの十年は、もっと変わるだろう。苦しくなるときも、悲しくなるときも、
   どうしようもなくなるときもあるだろう。そんなときは、さつま白波に酔いながら、
   夢の中の 祖父に語りかける自分がいるのだろう。


投稿者: inoyo 投稿日時: 2007-7-21 17:57:00 (523 ヒット)

アジア経済研究所の夏期公開講座に出かけた。第一回目の今回は、「転換期を迎えたタイの政治・経済」というタイトルで、
・90年代以降の民主化
・タイという国の中進国化=国の近代化、現代化

をテーマに3人の講師が、それぞれの専門である、
・法律(97年憲法体制の意味と新憲法の動向)、
・行政(「タイ式」民主主義とタックシン政権)
・経済(GDP3000ドルの数値の裏の都市−地方格差・少子高齢化)
の立場から論じるというものだった。

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「人気絶頂」のタックシン政権崩壊の理由
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タックシン政権の崩壊の背後には、
a) 国王を含めて、王制を護持したい勢力からの反感があったこと
b) 旧来のタイ式民主主義の担い手、たとえば、軍関係者、枢密院、保守派知識人の一種の焦り
   ・農民を巻き込んだ大衆民主主義に対する都市中間層の嫌悪感・恐怖感
   ・近隣のマレーシアやシンガポールのように一党によって政治を牛耳られる
   ことへの抵抗感などがあったという分析であった。
   (97年憲法で、小選挙区制になってから農民の票が大きな力を持つよう
   になった。)

いずれもタックシンが非常に魅力的な政治家であったがために起こったことでもある。(わが国の首相はさぞうらやましいことだろう。)タイにおいて国王の威光というものは、非常に大きかったらしいが、「国王を敬愛するがタックシンも気遣う。」という言葉が出てくるほど、タイ農村部におけるタックシンの人気は絶大なものとなっていたらしい。

※タイにおけるクーデターは決して珍しいものでもない。ここ50年ほどの間に10回以上のクーデターが起こっているようだ。「クーデター」というと日本人の私にとってはおっかないことのように聞こえるが、感覚としては、「衆議院解散!」のようなものかもしれない。いや、さすがに違うか>_<

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●タイの地方部における高齢化の急速な展開
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タイにおいて高齢化の速度は非常に速く進んでいる。高齢化社会(老年人口割合が7%)から高齢社会(老年人口割合14%)となるまでの経過時間を国際比較すると、欧州各国で4〜60年かかっているところを、タイではわずか20年程度で移行したという報告がなされている。
私たちはよく「貧乏子だくさん」なんていったりして途上国では、特に農村では子どもが多いイメージがあるが、必ずしもそうではないということだ。特に、GDPが著しく低い農村部において高齢化現象は起きているというのである。

それは、農村から都市へとくに、若い人口が流れているからだ。情報・交通機関が発達したことで、都市への人口流出のスピードは速くなり、その結果、
○農村部:reproductive ageにいる人が少ない
○都市部:高学歴化、晩婚化などで低出生率
という状況になるにいたり、高齢化はとまらないということだ。どっかの国の「三ちゃん農業」を生み出した状況と一緒といえるかもしれない。
貧しい国であればあるほど、所得格差をうめる唯一の方法は、学歴を高くすることだ。学歴を高くするためにはふるさとをあとにしないといけないのかもしれない。

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まとめ
今回の勉強会は、いわゆる私が普段勉強しているような内容からは程遠かった。しかし、政治・経済という内容自体は普段見ている社会を別の角度から照らし出すもので、単純に面白い。それに、私が今やろうとしている学問領域を社会の中で、きちんと位置づけをする、という点においても非常にためになるだろうな、という感覚はあった。

それからタイのエイズ対策がドラスティックに進んだのは、タイでは、予算権限が省の局レベルにまで降りてきていることが関係するのかもしれない。
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投稿者: inoyo 投稿日時: 2007-7-8 17:55:00 (506 ヒット)

旅とは人生であり、人生とは旅である。
中田英寿


ガイドブックを片手に、見るポイントを決め、そこを訪れる――もし今回のベトナム行きが、彼の言うところの旅であるとすれば、人生はなんて味気ないものか。

スタンプラリーに「そこそこの満足感」しかないように、あらかじめ決まったコースを回るだけでは、心の奥底に灯るアツいものは何もない。それをわかりつつも、一週間という現実的な制約のもとでは、そうせざるを得ない、というのもまた事実である。

長く居ることだけが答えであるはずはないし、観光をすることを否定するわけでもない。地の食を喰らい、酒を愉しむことは、それはそれは楽しいことである。

しかし、そこにはある種の不確実性が存在するべきであって、そうであってこその旅であり、また人生である・・・――というのがどうやら私の嗜好であり、志向であるようだ。


投稿者: inoyo 投稿日時: 2005-4-1 22:30:00 (685 ヒット)

とうとう22歳の誕生日を迎えました。そしてカメルーンへ出発する前日となりました。

準備もぜんぜん終わっていないというのが今の状況ですが、正直、日本をたつ事に関して動揺しはじめています。いま、このように書いていても心臓の高鳴りが体の中で響きます。なんともいえない緊張感、孤独感、そして漠然とした恐怖感。自分の中でどんどん大きくなっています。

自分がどうしてカメルーンに行こうとしているのか、わからなくなったり、やたらとさびしくなったり。こんなことなら行くことにしなきゃよかった、なんて思ってみたり。

まぁ、でもこのくらいの方が人間らしくていいか。

この一年がどのような展開をするのか、もちろんぜんぜん想像がつきません。ただ、今までのように、しっかりとおちついて、ひとつずつこなしていけば、きっと何とかなるはずです。そして、この一年が私にとって欠かすことのできない一年になると信じています。

だから、前を見つめて、一歩一歩歩きはじめたいと思います。そして、願わくば、笑顔を失わんことを。

とにかく、がんばってきます、と思ったけど、何をがんばるかわからないので、しっかり生きて帰ってきます。しばらくは書くことができないかと思いますが、それまでしばしお待ちを。それではこの一年間も井上陽介をよろしくお願いします。


投稿者: inoyo 投稿日時: 2005-3-25 22:20:00 (703 ヒット)

今日は上野動物園に久しぶりに行きました。
動物園自体に行くのが久々のことだったので、とても新鮮でしたし、
実は動物園というところが大変面白いことであったことに気がつかされました。

飼育されている動物の観察が面白いのはもちろんですが、
そこになされている説明も同時に興味深いものでした。
また、歩く道々にも様々な工夫がしてあって、
楽しみました。

今までは遠い異国の地から来たそれらの動物に対して、
それこそ「つれてこられて可哀想」といったような哀れみの気持ちですとか、
ある種のエキゾチシズムを感じていましたが、今回は少しばかり異なりました。
ゴリラの生息地として列挙されていた中には、
なんと第三の故郷(笑)、カメルーンの文字が。

勝手にですが、ゴリラに対して親近感を持ってしまいました。
そして、カメルーンがとても近くなりました。
ただ、同時にすごいところに行くんだな、としみじみ思ってしまいました。

でも、どこに行くかということはあんまり大切なことではなく、
私が一番忘れてはいけないことは、その場所に生きる人と同じ目線に立って、
(難しいことなので、少なくとも、同じ目線に立とうとすることを忘れ続けずに、)
同じように生活をしようと努めることです。
一番してはいけないことは、日本での生活との比較の中で
カメルーンの生活を評価することです。
絶対に、とけ込みます。

そんな風に決意を固めながら、上野の森を歩いたのでした。


投稿者: inoyo 投稿日時: 2005-3-20 22:17:00 (656 ヒット)

今日は色々なことがありました。

お昼には勤務していた塾での合格祝賀会のようなものがありました。
みんな合格を勝ち取った生徒たちですし、
仲間とは久々の再会だったようですので、皆笑顔が溢れていました。

夜には大学の語学のクラスの仲間との集まりがあったのですが、
実は隠していたつもりのカメルーン行きがじわじわと広まっていたらしく、
なんだか送別会のような形になり、寄せ書きとお花を頂きました。
想像していなかったことでしたので、
とてもうれしく、思わずニコニコしながら家路につきました。

春はとても不安定な季節です。
それぞれが異なる道を歩みはじめ、別れを迎えます。
新しい生活も手探り状態で不安定な気持ちの中で過ごします。
空も、曇りがちで晴れ渡ることはありません。

でも、私にとっての春はあくまでもはじまりです。
希望を持ち、目を前に向け、これから始まる一年に
心を躍らせながら、サクラで一杯になった空を仰ぐ季節です。

そういう思いを改めてもたせてくれた一日でした。


投稿者: inoyo 投稿日時: 2005-3-15 22:16:00 (665 ヒット)

私は多分、とてもわがままです。
そのことで多くの人を傷つけてきたような気がします。
今思い返してもたくさんの人に対して謝らないといけないような気がします。
全部、自分の都合でしか考えてないからそうなるのでしょうか。

第一に、自分が何を考えているかわからなくなることがあります。
別に複雑な理由があるとか、精神的な問題があるとかではなく、
ただ、純粋に、言葉通りにわからなくなることがあります。
そんなとき、人のことを傷つけてしまっているのかも知れません。

申し訳ない気持ちがないわけではもちろんありませんが、
多分、申し訳ない気持ちをもつことだけでは、
その人達に対しての謝罪にはならないような気がします。
きちんと生きることでしか、埋め合わせることができない気がします。

何でこんな事を書くか。
こうやって、カメルーンに行くとなると、
もしかしたら一生会えなくなるかも、と思ってみたりするわけです。
そんなとき、謝っときたいな、と思ってしまうことがあるんです。
でもこう考えること自体が、きっと自分勝手な気持ちからくるものなのです。
自分の気持ちさえ、すっきりすればいいっていうことですから。

何とかしたいという思いともに、しょうがないとも思います。
人にはみんないい面も悪い面も含めて、いろいろな面があるはずですし。
negativeなところではなく、positiveなところを考えて、
生きていくしかないのですから。
みなさま、私を見捨てないでください。

でも、これ以上は…。