都市的なるもの

中国海南省における《都市的なるもの》の拡がりと健康影響

◇背景

 世界のグローバル化が進むにつれて、《都市的なるもの》が農村部へ流入し、そして農村部からも大量のヒト・モノが《都市的なるもの》へと流出していった。具体的には、大量生産された商品やサービスが、農村部においても購入・利用可能になり、そして《都市的なるもの》の工業化、産業化を支えるべく、たくさんの人びとが農村部から出稼ぎに出かけるようになった。こうした急激な社会変化は、農村部がそれまでに残してきた伝統的な生活文化の存続に影響を及ぼしている。

 ここで着目したいのは、こうした《都市的なるもの》との接触が急激な社会変化を引き起こし、最終的に人びとの健康を損なう可能性がある、ということである。特に発展途上国では、保健医療サービス、インフラ、教育システムなどの整備が不十分なまま、急激な都市化と市場経済化が進展したため、旧来の急性感染症の減少を伴うことなく、生活習慣病などの慢性疾患が増加している(Martens et al., 2003)。他にも、出稼ぎ労働者が出稼ぎ先で受ける健康への影響(Zhang et al., 2009)が示唆されたり、人口流出に伴う社会関係資本の低下(Yip et al., 2009)や再生産システムの崩壊危機(とくに嫁不足(蒋, 2004))などが報告されたりしている。こうした一連の変化は、農村部コミュニティの持続的な健康・生存に大きな影響を持つ。



◇これまでの研究の目的・方法

 井上の研究の目的は、上述するような急激な社会変化が農村部コミュニティに与える健康影響を明らかにすることである。とくに博士課程終了までは、そのなかでも中国少数民族居住地域における健康影響を総合的に理解することを目指している。それは、急激な社会変化の影響が《周辺部》に暮らす人びとの生活環境に顕著に現れる(篠原, 2004)ことが経験的に知られているためであり、負の健康影響が引き起こされる可能性が高いためである。

 井上は、中国海南島農村部に暮らす少数民族「リー(黎)族」を対象に調査を行っている。海南島農村部は2000年以降、換金作物栽培や観光開発などによって急激な生活環境の変化を経験している。調査の具体的内容は、人類学の分野で確立された参与観察を基礎として、彼らの生活様式の理解からはじめ、1980年代の改革開放以降の生活環境の変遷を整理した。さらに健康状況を主観的健康と客観的健康指標の両側面から評価してきた。健康は、疾病への罹患の有無や健康指標の高低(高血圧、高血糖など)といった客観的な健康指標だけで判断するのではなく、本人が自身の健康やQOL(生活の質)をどう主観的に捉えているかという観点からも評価する必要があるとされている。

 なお、井上が所属する東京大学大学院人類生態学教室は、海南省民族博物館および海南省CDCと研究協定を締結している。



◇博士課程での研究

 井上は五指山市における修士課程時のフィールドワークを通して、現代社会においてはどんな辺鄙な農村に生きる人びとの生活にも「都市的」な要素が内在することを改めて認識した。人びとはテレビを通じて都市の情報を受け取り、都市部で生産された耐久消費財を利用する。出稼ぎから戻ってきた多くの人びとは都市的な生活の経験を持つ――こうした農村部コミュニティに内在する《都市的なるもの》は、食生活・労働形態・行動の変容を介して、人々の健康に大きな影響を及ぼしており、《都市的なるもの》との接触の程度の違いが、個人の健康を決定するという仮説を立てることができる。

 このような仮説を検証する際には、従来のような「都市−農村」という分析の枠組みは不適切であり、様々なレベル(個人レベル、世帯レベル、村落レベル)でどのような《都市的なるもの》が存在するか把握し、それぞれの健康への影響を正と負の両面から評価することが必要である。しかしながら、先行研究には以下にあげるような問題点が存在する。

・人口移動が頻繁に起こっているにもかかわらず、先行研究では閉鎖的なモデルを想定していることが多い。たとえば都市からの帰還労働者は、分析の対象外とされてきた。こうした研究デザインは、人口移動が頻繁に起こっている現実世界からかけ離れたモデルを想定しており、農村部コミュニティの健康を評価しているとは言えない。
・都市化が健康に与える影響について調べた先行研究では、村落自体の都市化の程度を評価し、それを村落の構成員すべての《都市的なるもの》の影響と仮定して健康の評価に用いてきた。しかしながら、都市的環境への接触の程度は、同一村落内でも個人間差が存在する。

 本研究では、《都市的なるもの》の中でも出稼ぎからの帰還労働者に着目する。彼らは、都市部に出かけ《都市的なるもの》に多く接触し、健康への様々な影響を受けているという点、さらに彼ら自身の存在が農村部コミュニティにとっては《都市的なるもの》であるという点で特殊である。先行研究(Li et al., 2006)では、同じような境遇にいるべきだと感じている人(reference group)との間に発生する格差が、主観的QOLに大きな影響を与えることが示唆されており、出稼ぎからの帰還労働者や彼らが持ち帰るものが農村部コミュニティでどのように捉えられているかに注目したい。



◇想定される成果目標

1. 歴史的変遷の整理
 様々な《都市的なるもの》が1949年以降、農村部コミュニティの中でどのように拡がり、また現在はどのように存在しているか整理される。
 《都市的なるもの》が農村部コミュニティに与えてきた健康影響について、海南省CDCから提供される過去の医療統計データの分析を通して、正と負の両側面から記述的に整理される。

2. 《都市的なるもの》との接触と健康の関係についての統計学的分析
 統計学的な分析を行ない、《都市的なるもの》との接触と健康レベル(客観的健康指標と主観的健康)との間の関係が明らかにされる。



◇進捗状況・今後のスケジュール予定

2010年11月-12月
  海南省5地域・21村落にて広域調査を実施。
2011年3月‐6月
  広域調査で収集した血液サンプル中のCRPを分析。
  分析を元にin-depth調査をおこなう村落を決定。
2011年7月‐2012年6月
  現地におけるフィールドワーク




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